素敵な朝を迎えるために、出来ることはなんだろな。記憶と風化の積み重ねが人を大きくするのかも
素敵な朝を迎えるために!
というのが、グラノーラ開発と並行して、
個人的にとても興味のあることで、このブログを始めるきっかけでもあります。
私にとっての素敵な朝というのは、
木漏れ日から差し込む陽光の様に、レースのカーテン越しに感じる朝の光と、
季節によっては鳥の囀りや、少し開いた窓から流れ込むひんやりとした風がもたらす、世界の音楽だったりします。
そして、カーテンをシャッと開けると、
澄み渡った青空と、目の前に広がるグリーンのカーペットが。。。
ギャアァァァァ━━━━━━(゚Д゚|||)━━━━━━!!!!!!
なんて、気持ち悪~い妄想をしたりするのです・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・
と、冗談はこれぐらいにして、
記憶や歴史というものは時にとても残酷で、時にとっても大切なものとなって、
私たち一人一人にもたらされます。
ある人にとっては、その一瞬が生涯忘れられない出来事になったり、
ある人にとっては、日々消化するただの数秒でしかなかったりします。
そこに本質的な差は一切ないし、1秒は1秒であり、1時間、1日、1年も、
即物的価値観からいえば、その瞬間瞬間の意味に、比重の差なんて生じないわけですね。
だから、『私にとっての、あの日、あの時、あの瞬間』というのは、
あくまでワタシだけのモノであり、時には愛する恋人しかしらないモノだったりするわけです。
それは必ずしも共有するべきものでもなければ、
共有なんてできるものでもありません。
当事者にとっては、時間だけが、その事象を曖昧に変化させ、美化し、風化させ、
記憶や思い出となって、それぞれのワタシになっていくわけですね。
タイムマシーンのない現代、過去とは決して変えることのできない事実です。
催眠術やマインドコントロールによって、人為的に塗りなおすことはできるかもしれませんが、あの日感じたあの瞬間は、良くも悪くも覆い隠すものではないように思います。
2001年9月11日
ワタシには特筆して何かが起きたわけではありません。
でも、教科書に記載された年号ではなく、あの日起こった出来事は、
私の記憶に刻み込まれ、私の歴史になっていくのでしょうか。
忘れることでしか、解決できないこともありますが、記憶し、
そこから始めることでしか、変わらないことっていうのは、
たくさんあるように思います。
なぁんて、しんみりしちゃったらごめんなさいヾ(゚д゚;) ゴッ、ゴメン
だからこそ、1日1日を大切に、一度しかない人生、
一度しか始まらない今日の朝を素敵な朝にするために!
そして、今日1日を最高な1日出来るように!
今日もグラノーラ作りに励むのです( ̄ー+ ̄)キラリ
今日の最高のいっぱいに♪ ダバダ~、バ~バ、ダバダ~♬って、
どこかのコーヒーのコマーシャルみたいにね(´・ω・`)
たまには、こんなことを書いてみないと、
やってられなくなっちゃいそうな、情緒不安定なわたしなのでした~v( ̄Д ̄)v イエイ
明日からは、たぶんまた、元に戻りま~す。
戻らない方が良いとか言わないでくださいね(∀`*ゞ)テヘッ